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こんばんわー
先月「週末ジンジャー」で取り上げた北茨城市の【皇祖皇太神宮】ですが
参拝に上がらせていただいた記事をサラッと記して終えていたので追記と言いますか・・
「好きモノ」な方々にはお馴染み^^;?である【竹内文書】についてまとめていきたいと思います(^^)
お好きな方はどうぞお付き合いくださいませ!
深く掘れば掘るほどに・・どこまででも底無しのミステリーというか・・面白さが広がっていると思う古史・古伝、そして「竹内文書」ですが・・
以前にも触れてましたでしょうかねえ・・私が兼ねてより愛読というか愛覧させていただいているYouTubeチャンネル「TOLANDVLOG」でも詳しく紹介されているんですが・・
「竹内文書」にはいわゆる「茨城系」と呼ばれるものと、「正統竹内文書」とされるものとがあり・・後者では「我こそが武内宿禰の直径の子孫なり」を名乗る人物が「こちらが正統だ」と言っているワケですね・・
「茨城系」竹内文書は皇祖皇太神宮第66代管長・竹内巨麿氏が竹内文書を世に公表したことで知られていますが・・
もう一方の「正統」竹内文書の方は第73世・武内宿禰を名乗る竹内睦泰氏が「我こそ正統」としています
いわゆる古史・古伝というやつは口伝であってそもそも文献にはなっていなかったり・・
例えばスサノオやキリストのように武内宿禰もいわゆる世襲制で何代にも及び何人もいた、とか・・
古神道の世界では血統継承もあれば一子相伝の霊統継承もある、とか・・
はたまた古の時代には人の寿命が何百年とか当たり前に出てきたりして・・時代が下るうちに今の私達の常識の寿命に近づいて来た・・とか
そんな話(長寿の方法)などがこれまた古史・古伝の「ホツマツタヱ」に記されている、とか・・・
まあまあ様々な要素がカオス状態にて・・何が本当とか正しいとかは曖昧模糊なワケです・・(・_・;)
「TOLANDVLOG」さんでは「正統竹内文書」について詳しく解説されているのと、
私が現在たまたま茨城に居住させていただいている「地元」さもあり・・
私は「茨城系竹内文書」についてまとめていこうと思います(^^)
ちなみにこの両者・・どっちが正しいとか・・ここではその正統性を論ずるものではございません
「茨城系竹内文書」とは
五代に渡って天皇・皇后に仕え国家に忠誠を誓い300年以上生きたとされる「武内宿禰」
これまた先日UPしました古史古伝の【ホツマツタヱ】とも被ってきちゃうんですが・・
弥生時代の終わり頃には武内宿禰が海外から技術者を呼びまくっていた時代ですよね・・
その武内宿禰の子孫を称する皇祖皇太神宮第66代管長の「竹内巨麿」(たけうちきよまろ)が戦前に残した文献が「竹内文書」です
「竹内文書」は初代・神武天皇よりも前の時代・・・どころかこの大宇宙の創造からの歴史が示されており、とてつもなく壮大な歴史が記されているものです・・
その原本は「神代文字」で書かれていて、宇宙の創造からの
天神7代、上古25代(33,490年)、不合朝(フキアエズ)73代(8,279年)、神倭朝~平成125代(2,661年)が書かれているというとんでもない文献なのであります・・(゜゜)
これは何を言っているかというと・・
私達が教えられてきた「歴史」、初代神武天皇より以前に更に100代もの天皇がおられたということなのです!
私達が知る「歴史」とは、神武天皇以前は「神話」の世界じゃないですか・・!それが単なる「おとぎ話」の世界じゃない、と言っているワケなんです!もう、これだけでとんでもないでしょう(;゚Д゚)!
世から葬り去られる危機に瀕した「竹内文書」は偽装死と共に富山に隠された
そんなとんでもない内容が記されている「竹内文書」は・・第25代「武烈天皇」の衰退と共に歴史の表舞台から葬り去られたということなんですが・・
この武烈天皇で神武王朝が断絶し・・国が乱れ出雲族が頼まれて天皇を出したと言われていますよね・・
そう、第26代「継体天皇」ですね!
一説によるとここから第28代「宣化天皇」までが出雲神族と言われています
このタイミングで一度「竹内文書」は奪われて抹殺される危険に瀕したといいます・・
そこで武烈天皇に神勅があり、ある者を抹殺した事にして一緒に「竹内文書」も持たせ富山に逃がしたというのです(゚Д゚;)マジカ・・
それが「平群真鳥」だというのです・・・(゜゜)
いわゆる定説では仁賢天皇の没後に自ら天皇になろうとした真鳥は、武烈天皇に命を受けた大伴金村に討たれ平群一族は壊滅させられた・・んでしたよね・・・
実はそうじゃなかった・・?
「竹内文書」を守る為に、殺されたと偽装して富山に隠していた・・・という話になります
富山に着いた平群真鳥はすぐさま墓を堀り、その中に「竹内文書」を埋めたんだそうです・・!
ちなみにその墓というのは現存しているらしく・・現在の富山市の「久郷」という場所だそうなんですが・・私は生涯で一度も富山は訪れた事が無く・・土地勘が無いのでスミマセン・・とにかく「皇祖皇大神宮」と共に訪れてみたい場所であります!
もうひとつ脱線します
心学研究家の小林正観さんの話では、富山にいた竹内巨麿は皇祖皇大神宮の庭には63個の瓶が埋まっていて、その瓶の中に文献が入っているという事が伝わっていたので、境内のあちこちを掘り始めたそうです
すると・・ひとつの瓶に神代文字で書かれた文書を発見します
これを東京で「万国古代文字研究会」というものをやっていた「ヤマネキク」という人に解読を託したんだそうです・・
そして数年の後、そこに書かれていた内容が解ったそうです
出て来た文献の中に「キリストの遺言」というものがあった・・!
・キリストは日本で死んだ
・弟の「イスキリ」が自分の身代わりになって十字架にかかった
・新郷村(元の名前は戸来(へらい)村・・「ヘブライ」か?)の沢口家の娘と結婚し108歳まで生きてこの村で死んだ
・キリストは、自分が死んだら弟のイスキリと平等に土饅頭を二つにした墓を作って祀ってくれと遺言した
・この地方に伝わり盆踊りなどで歌われる「ナニャドヤラの歌」は、ヘブライ語で「神の名を褒め称えよ」であることが解った
・キリストも釈迦もモーゼも皆、日本で神学を学んだ
・釈迦の墓は青森県
・十和田は「十ユダヤ人が和して経済活動を営む(田を耕す)所」
小林正観さん曰く、「面白過ぎるくらい面白い話」ということですが、まったくもってその通りですね!
これは私が東北(秋田)在住時に訪れたい、と思って「予習」していた時の絵ですが^^;
「竹内文書」を勉強する前から「キリストの墓」は気になっていました・・^^;
グーグルマップでも確認出来ますし、その地名は「沢口」となっています
「モーゼの墓」があるという石川県の羽咋郡もグーグルマップを見てみると「伝説の森公園(モーゼパーク)」という場所がありますね(ここも訪れてみたい!)
時を経て「竹内文書」世に公開される
さて、皇祖皇太神宮第66代管長・竹内巨麿(明治8年1月1日生まれ)が19歳の時、
京都「大悲山」に1000日間の山籠もり修行に入ります
「大悲山」は京都の鞍馬山の更に北にある修験の聖地であり、その急峻な連山は奈良の大峰山に対し「北大峰」と呼ばれてきたそうです
また、「鞍馬の奥」とも言われ古来落人の隠れ里にもなっていたようです・・
そしてこれまた私的には先日UPいたしました「畿内五芒星」で引いたレイライン、福井小浜の鵜瀬から和歌山の熊野本宮へ南北に引いたライン上に・・多少ズレてはいるものの並んでいるなあ・・というのも興味ポイントです
そんな「大悲山」での修行中、ある夜天空に神代文字が浮かび上がったそうです・・
これをもとに「竹内文書」を解読した竹内巨麿はこれを明治末期~大正にかけて世に公開しました
宗教団体「天津教」の創設です
その衝撃的な内容が世間の大きな反響を呼び・・軍の上層部や華族、角界の名主たちが「竹内文書」を求め皇祖皇太神宮に足を運んだといいます・・
時代も時代ですし・・その異質な神代史・・「神武以前」の皇統を語ったり・・いわゆる「私達が教育されてきた歴史」とはまるで異なる言及は・・そりゃあそうなるわな・・という話だと思うのですが^^;今でこそ「風の時代」に入って、そういう話もバンバン世に出て来ていますが・・・ちょっと出すのが時代的に早すぎるというか・・
一般人でさえ口にするのもタブーな時代・・すごい勇気だったと思います・・まさに命掛けですね・・
当然ながら?特高警察にその文献は没収され・・神宮への参拝者にも様々な圧力が掛けられ弾圧されました
その後約8年に及ぶ苦境にありながらも・・最高裁の判決では無罪、「神の事は我々人間が裁くべきことではない」として勝訴しました
しかし特高警察は「竹内文書」の文献を返すことは無く・・時は戦時下、昭和20年の東京大空襲で多くの文献(原本)が焼失してしまいます・・・
それでも特に重要な部分については書き写したものを保管していたようです
そして現在その「竹内文書」を引き継ぐのが茨城県は北茨城市磯原町にある【皇祖皇太神宮】第68代管長・竹内康裕氏なのですが、「竹内文書」を世に公開した第66代竹内巨麿さんのお孫さんに当たる方ですね
この「皇祖皇太神宮」は元は富山県にあったものが移されたようですが・・
その富山に最初に神宮を置いたというのも・・
天神7代-上古25代-不合朝73代-神倭朝125代という現代に続く歴史の中の「上古の時代」という事ですから・・めちゃめちゃイニシエの話になるんですが・・
そこはまた、茨城系竹内文書の中身を見ていく際に触れたいと思っています
その富山の神宮は、「御皇城山皇祖皇太神宮」として現在もしっかりお祀りされています(めちゃめちゃ行きたい!)
何故その富山から茨城に皇祖皇太神宮を移したのか?
一説によると竹内家の子孫のお母様が亡くなられた時、いわゆるその敵討ちの為に各地を転々とした後に茨城のこの界隈にやって来て・・その敵は既に亡くなっていたという事が判明してから日立から福島辺りに竹内の子孫はいらしたらしいのです・・
その間、自分のこと(敵討ち)だけでは無く、人々の救済も同時に行っていたそうで・・そのうちに信者の人々がこの地を準備しお宮もここに建ててはいかがか?という事になって、現在の場所に皇祖皇太神宮が建てられたということです・・
ちなみに「竹内文書」を公開した竹内巨麿氏は、0歳の時に貰い子として富山の竹内家に入ったんだそうです
いわゆる、古神道における「霊統継承」ということになりましょうか
と、いうことで
ここまで「茨城系」と言われる「竹内文書」について見て来ました
その内容にはこれまたびっくり仰天!
人々に芽生えたやましい心・・神の怒り・・その都度神は「五色人」を全滅させ、何度も地球上に新しい文明を築くことを繰り返してきた・・・・
そんな「竹内文書」驚愕の内容に、次回から触れていきたいと思います
「好きモノ」の私にとっては正に夜も寝られない・・・!面白過ぎる禁断の歴史ミステリーに興味が尽きることがありませんっ・・^^;
改めて、とてつもなく面白い時代に私たちは今、生きているなあ~と思うところです!
こういう話が大っぴらに楽しめるようになったこの時代がね(^^)!
ということで
今日もお読みいただきありがとうございました
嬉しい 楽しい 見る 知る シアワセ
感謝してます
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