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日がな一日図書館に籠った日~「まつろわぬ悪神・甕星香々背男」と「土蜘蛛」考察

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こんばんわー

今年の年明け後のあれは1月だったですかねえ・・

とある日がな一日地元の図書館に籠った日がありまして

あれ何ていうんですかね・・いわゆる貸し出し出来ない本、貸出禁止本?(まんまやないけ^^;)を図書館の閲覧室でじっと読み耽っていた日がありました

全国転々とする中で、その土地その土地の地元の史料に触れるような部分がまたとてつもなく贅沢で・・大きな喜びだったりするんですよね(^^)

その時に読んだ本が昭和11年「水戸学精神作興社」発行の宮田實著
『大甕より久慈濱あたり』
という本だったんですけど・・・これがまた

ヤバい!笑

いわゆる戦前に書かれたこの本には、大甕神社のかつての本殿?の白黒写真が掲載されてましてね!これがまた今とは大違いのデカさで・・今の拝殿的な感覚のお社があの岩山の頂点に建ってるんですよ(゜゜)もうびっくらぽん!でしてね・・!

だって今この情報時代に・・天下のグーグル先生で検索しても出てきやしないかつての本殿の写真!どんだけレアよ・・!と思いましてね・・もうそれだけで大興奮したという・・・

そしてまたその冒頭の描写がゾクゾクするような陰影を醸し出していまして・・ちょっと引用させていただくと・・

紫に霞む高鈴の連峰その最南端の一角
大甕山より久慈濱あたりこそは三千年の神秘を語る舊跡である
大甕の地は先住民族として古典に載る所の
甕星香々背男と称する強賊の占拠していた所であった

いやあ・・・たまんないですね・・(;'∀')

紫に霞む高鈴の・・・もうこれだけで逝っちまう勢いです・・^^;笑

そして出たでしょ!ミカボシカガセオ!!

もうこの荒ぶる最強神が登場したところで・・その日一日を私はその本に捧げる事が決したようなもんでございます・・

a-jyanaika.com

そしてまた一気に本に引き込まれて行ったのが次の部分・・

国津神というのはすなわち天孫降臨又は出雲系の神々の渡来以前に土着していた先住者

「土蜘蛛」、「国栖(くず)」

であり・・「高尾張の邑に土蜘蛛がいた」

と(゚Д゚;)来たぜよ・・土蜘蛛!

景行天皇の頃と言えば倭国大乱があった時代じゃないか??という説もあるようにあちこちで豪族がひしめいていたような時代に・・息子のヤマトタケルノミコトを全国あちこちに派遣しては討伐を繰り返させていた時代・・

一説には息子のヤマトタケルが怖くて仕方なかったが為に景行天皇はあっちにいってこい、そっちに行ってこいと自分から遠ざけていたという話もある中・・

朝廷に逆らう者たちのことを「土蜘蛛」とか「蝦夷と蔑んで討伐しまくっていたんですよね・・

「土蜘蛛」は身は短く、手足が長く侏儒に類するもの、と表現されていて・・「侏儒」とはいわゆる「こびと」の事ですね・・・

「高尾張」というのは現在の奈良県の葛城の麓あたりだと思うんですが・・日本書紀神武天皇記にも

「高尾張邑に土蜘蛛がいたので殺害し葛城邑に改めた」とあります・・・

ちなみにこの景行天皇の時代、天皇のスーパーブレーンだった武内宿禰が海外から技術者たちを呼びまくってた時代・・ですよね!

いろいろヤバそうな時代の古伝に登場する「土蜘蛛」

豊後風土記には・・豊後国速見邑には大石窟があって、青・白という2つの土蜘蛛がいた

直入縣禰疑野(大分県竹田)には・・打猿・八田・国摩侶という3つの土蜘蛛がいた

この5人が最も力強く頑強に皇命に服さなかったので討伐された

と、そのことが日本書紀景行天皇の条に書かれているのです・・・

諸説ある中、摂津国風土記によれば「土蜘蛛は常に穴居生活をしていた為、神武天皇が賊號を土蜘蛛と賜ったと云う」

一説では天孫に反抗した異類種にのみ土蜘蛛の賊號が用いられたとも言われ・・熊襲蝦夷などの異類種に用いられたとも言われているようです・・

また、「国栖族」(国主・国巢)は吉野川のほとり峰俊谷深い所に住む異類種で

古事記には、神武天皇吉野山に入った時尾がある人に会ったが、それが国津神石押分の子で「これが吉野の国栖の祖である」と書かれています

「国栖」とは「クニズミ」、即ち前々から国に住んでいた人の意か・・あるいは「国主」(クニズ)でクニヌシ、つまりは「地元の人」という事になりましょうか・・・

そしてまた日本書紀・・

天に悪神あり、名を天津甕星またの名を天香々背男と云ふ

とあります・・

「大甕より~」の著者は、このカガセオとはつまり「国栖人」であって穴居していた土蜘蛛であろう

というのです|д゚)

著者は続けます・・

思うに久慈の地名は「国栖」くず~クジに訛って変化したものではなかろうか、と

(あるいは昔は岬の事を「クシ」と言ったので久慈の起因かも知れない)

そしてまた興味がそそられる点が以下の考察であり・・

また俗説にはカカセオとは「こうらざめ」を言うもので、つまり「ワニ」の事を言う

って・・出た(゚Д゚;)!これっていわゆる因幡の白兎」じゃん・・!!

著者は、「天津甕星」を称したことは天孫系に属していたのではないか・・と考察しているのですが・・もはや敵味方がカオスな状況になって来ましたよね・・^^;

「ワニ」(和邇)が出て来たことで「カモ」と同様一種の氏族だと思いますので・・ますます混沌としてくるところなのでございます・・・(~_~;)

 

と・・まあ・・・

いつもの如く取り留めも無い話になっちゃいましたけれども・・・

私達が「教えられてきた歴史」よりも更に古にも・・とんでもない歴史があって

いわゆる「不敬」に当たるからタブー視されてきたもっともっと深い歴史がある、ってことだけは事実だと思うんですよね

それがこの時代に・・古神道で云うところの「瞬き三千年」という節目に入って・・

隠されて来たものがどんどん表に出て来ているという・・

これはとんでもなく面白い(興味深い)時代ですし・・どうせそういう時代なら思い切り楽しまない手はないじゃないか!と思うところです(^^)

恐れても楽しんでも・・起こっている事象は同じであれば・・そりゃあ後者の方がええんじゃないかっ!というところで・・

本日のうめじろうの歴史呟きはお開きにしたいと思います^^;

取り留めないお話、お付き合いくださいまして誠にありがとうございました!

 

嬉しい 楽しい 見る 知る シアワセ

今日もお読みいただきありがとうございました

感謝してます

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