うめじろうのええじゃないか!

貧困中年のサバイルな日常と暮らし

上賀茂神社@龍馬をゆく2020

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「鴨」とは何ぞや。
我々「幕末人」は、ついつい新撰組局長、芹澤鴨を連想してしまうのですが、古代民族の種族を表す名称のひとつらしく、鴨族は古代大和の葛城山麓一帯に住んでいた種族らしいです。そもそも、鴨の語源は「神」にあり、「カモ」「カミ」「カム」は元々同一語だという説もあるようです。
やがて山城平野の一角に住みついた鴨族は、その一帯を開拓しその痕跡を残したといいます。それが、上加茂、下鴨、鴨川など地名として今に残っているようなのです。
さて、そんな「賀茂川」を渡り、上賀茂神社を訪れました

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私はここで、この鳥居の様子、以前どこかで見たような感覚に陥ったのですが、ここを訪れたのは生涯初めてです・・。テレビの番組か何かで見た映像が単純にデジャブっただけでしょうか・・。

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この様子!やはり以前どこかで見たような・・・。有名な神社なので、幕末番組に限らず、色々な番組等で取り上げられているのでしょうね・・、その映像が染みついているだけでしょう・・苦笑

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私たち「幕末人」にとって、上賀茂、下鴨と言ったらそれはもう、「加茂行幸」です
時は文久三年(1863)3.11、孝明天皇の下鴨、上賀茂へ攘夷祈願の行幸が行われました

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3月4日に入京し、二条城に入った将軍家茂。そのお供をして参拝する旨、朝廷から命じられました。これはかねてから長州藩が公卿を操って、予定させた策謀で、天子が公卿百官を率い、その背後から将軍が諸大名を率いて都大路を練る、という大イベントです

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その行列たるや、王朝絵巻のような華麗な盛儀にて、幕府の記録には「まことに古画のごとし」と記されていたそうです。
沿道には老若貴賤が座り、行列を見物したといい、同じく幕府記録には、「あたかも神仏を拝するが如し」とあるそうです

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そんな見物衆の中に、3月9日に入京していた高杉晋作の姿がありました
高杉晋作は、天子の車駕が目の前を通り過ぎる時、ひざまづき長々と拝礼していたようで、これは師匠の吉田松陰が、天子を地上のあらゆる価値の中で最高のものとしていたから、その影響を受けているためとも言われています

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ちなみに松陰は、天子を拝する機会無く死んでおり、高杉にはこの時、そうした松陰の想いなどもその胸中にあったのかも知れません・・

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そして、次いで将軍家茂が馬に乗って通りかかった時、かの有名な逸話の場面がやってきました

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いよう

征夷大将軍

と、言い放ったのです

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とんでもない無礼な挙動。
本来であれば、即刻ひっ捕えられ、極刑に処される所業。しかし、この時の将軍は、天子の行幸の「お供」であり、行列を乱す訳にはいかなかったので、この無礼を咎める事には至りませんでした・・

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そもそもが、この行幸は長州の策謀により実現したものでありましたが、こと高杉は「そんなことで天下が動くか」と、この行幸には否定的だったといいます。
本当の話か否かは解りませんが、この逸話が事実だったとすれば、そんな高杉であったにも関わらず、将軍すら天子のお供だ、という天皇の権威付けと、同時に幕府の貶めを行ったことになりましょう

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そんな賀茂行幸にまつわる高杉晋作の逸話を考えながら、初めて訪れた上加茂神社を参拝いたしました

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この日は特別参拝、という事で、内庭にてお祓いを受け、宮司さんに本殿・権殿等のご説明をいただきました

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この後、下鴨神社へと向かいました