「
御陵衛士」として
新撰組を脱隊した
伊東甲子太郎は案の定、とった感じで
新撰組に暗殺されます。慶応3年11月、龍馬暗殺事件の僅か3日後、油小路で
新撰組によって暗殺されました。その日伊東は国事の歓談に近藤の妾宅に誘われ、勧められるままに杯を重ね夜10時頃に近藤の私宅を辞し帰途につきます。
油小路通り差しかかった時、突然伊東の肩口から喉元にかけて槍が貫いた、といわれています。
本光寺前で絶命した伊東。寺には「
伊東甲子太郎外数名殉難之碑」がありました。更に伊東一派を一網打尽にせんとする
新撰組は、伊東の遺体を「おとり」にするため七条油小路の辻まで運び放置。急を聞き付けた
御陵衛士の仲間が駆け付け、伊東の遺体を収容しようとしたその時、30人を超える
新撰組が襲いかかったといわれています。
藤堂平助、
服部武雄、毛内監物が討死しました。当初から浪士組に加わり、近藤隊の「
池田屋」のメンバーでもあり、この油小路の事件での藤堂は
大きな物語として描かれます。
伊東の遺体が放置されていたであろう辻付近(上写真)。
新撰組と袂を分かった伊東ですが、そのめざす政体とは
天皇のもとに「政権は衆議を尽くして運営する」というもので、
倒幕派でもない伊東は
大政奉還後も徳川家が中心的役割を果たすものと考えていたと思います。これは、
私見でもありますが、まさしく龍馬が考えていたものと同質であり、暗殺の直前に伊東は龍馬に会いに行き「
新撰組が狙っているから気をつけろ」と忠告をしたり、龍馬暗殺から僅か3日後の落命といった点も妙に関連深く思えてきてしまうのです。もちろん。
北辰一刀流というのもそうですが、同じ所や色を見ていた者同士でも、その身の振り方や取り巻く環境でまったく対面にある、というのがまた歴史の不思議さ、面白さのような気がします。
油小路。ここを歩くのは大きな楽しみのひとつでもありました。やはり、夜を歩かねばならないでしょうか・・。