慶応三年十一月と言えば、そう、十五日の坂本龍馬の誕生日と「暗殺日」。新撰組が狙っているから気をつけろ、と龍馬に忠告に行った伊東甲子太郎。その僅か三日後、彼は酒に酔ってここを歩いていたのかも知れない。ここからもう少し先の本光寺の前にて、伊東は脱退した新撰組に暗殺される。
ところで、司馬遼太郎「新撰組血風録」の「油小路の決闘」に、近藤勇が伊東を招いた妾宅が「七条醒ヶ井興正寺横」とある。これは初めて読んだ当初はまるで無知なので完全にスルーしたが、今読み返してみると、改めてどうしてそんなことまで分かるのか、と驚愕する思いになる。司馬先生は東京神田の古本屋の古文書等歴史史料を「ぜんぶ」買ったと言われ、その量はトラックいっぱいになった、と伝わるが、こうした話も古文書の中に記してあったのだろうか・・。
ちなみに、油小路の老舗油店「西川油店」の看板には「創業天保六年」とあり、改めて江戸期タイムマシン要素を目の当たりにし、鳥肌が立ちます・・。幕末・新撰組、そして油小路の逸話、それらが好きな私は、油小路の老舗油店でえごま油を買おうかな、と思案しましたが、買い置きもあるのでやめにしときました・・・。
「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」碑
案内板は新調されたばかりと見え、非常に綺麗なものになっていました。
「伊東甲子太郎絶命の跡」という碑も庭内にあり、供養塔でしょうか、綺麗な花を手向けられていました。
そして暗殺された伊東の死体は、その仲間をおびき寄せせん滅させるべくオトリにされ、辻に放置されるのですね。その辻付近は今や交通量の多い大きな通りになっています。上記「油小路の決闘」では、この乱闘を隠れ見ていた者が朝になって小路を見てみると、「指がぱらぱらと落ちていた」とあり、これは小説の装飾でしょうか、それとも、そのような光景が実際に広がっていたならば、背筋が凍る思いです・・。
そしてこの乱闘で生き延び、血路をひらいて駈け薩摩屋敷に身を投じた篠原・加納・鈴木・富山は後、新政府軍の官軍東征に従軍します。翌慶応四年、流山で大久保大和の偽名で官軍の本営を訪れた近藤勇。この時の加納道之助が近藤の正体を見破って捕縛します。こうしたことも、因果応報というものなのでしょうか。