林蔵は文化4年(1807)、樺太探検に出発するにあたり、生前自ら墓を建てました。生前に墓を建てるとは、いかに決死の出発であったか、を思い知らされます。たしかに蝦夷地の更に向こうの果て、身も知らぬ極寒の地に徒歩で行く訳ですから、当然と言えば当然なのかも知れません・・。林蔵は宗谷岬の海岸から樺太へ渡る時も郷里から持ってきた?墓石を海岸に建てたと言われ、やはり「地」に相当な拘りを持っていた証なのでしょうか・・。「蝦夷地の大先人」間宮先生に200年の時を超え合掌です。私の北海道への想いを今解って下さるのはある意味で間宮先生しかおりません・・。自然、熱い思いがこみ上げます・・。
顕彰記念碑もありました。「間宮先生埋骨之處」