「板垣死すれど自由は死せず」
自由民権運動を推し進めていた板垣退助は、明治15年(1882)4月、岐阜の金華山麓での集会場で刺客に襲撃され負傷しました。
その時に発したとされる上記セリフが有名です
金華山を訪れて、何故こんなところに板垣退助が・・!と、思ってしまったのですが、なるほどここは岐阜!そうか・・・板垣が岐阜で襲われた現場とは、ここだったのか・・!と焦ってしまいました・・・。
「板垣退助遭難地」碑。
板垣退助と龍馬は実際には会った事は無かったんじゃないかと思うのですが、物語の中ではやんちゃな「クソ上士」である乾(板垣)と喧嘩するシーンが緊張感たっぷりに描かれていますよね。そして龍馬に簡単にやり込められてしまう退助ですが・・、慶応三年(1867)の「薩土討幕の密約」時には陸援隊の中岡慎太郎らと密約の席に出ておりました。後藤象二郎とはご近所に生まれたこともあってか、竹馬の友だったようです。
それにしても板垣退助と言ったら必ずこのポーズ・・・なんですね・・・笑
上記「板垣死すれど自由は死せず」ですが、これは当時の岐阜の警官が提出した報告書に書かれていた「吾死スルトモ自由ハ死セン」から来ているのだと思いますが、警部長が県令に提出した文章には、自分が死ぬことがあっても「自由ハ永世不滅ナルベキ」と(刺客に対して)笑った、とあるそうです。
これが上記フレーズとなって、また、板垣が岐阜で「演説」していたという所から、更にはこのいつものポーズによって、いかにも演説でこう発言したようなイメージに仕上げられているんだなあ、と思いますね。
@岐阜2021