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支倉常長「慶長遣欧使節」@仙台2018

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ご周知、仙台藩主・伊達政宗。慶長18年(1613)に「慶長遣欧使節」を派遣しました。
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私の乏しい戦国認識では、それより遡ること50~60年前、いわゆる信長の時代、イエズスが日本に入って来た宗教戦争の時代、というイメージなのですが、慶長に入って徳川の時代になると、既にキリスト教は禁制ど真ん中の時代になっていたと思うのですが、何故この時期に仙台藩の遣欧使節派遣を家康が承認したのか、非常に不思議に思います。
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仙台藩は当時、国内で初めての西洋帆船、「サン・ファン・バウティスタ号」を造らせます。
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そして、伊達政宗から貿易交渉を命じられた支倉常長らは、石巻から出航しました。現在、石巻市の「サン・ファン館」には、復元されたサン・ファン・バウティスタ号」が展示されています。
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すごい迫力のある船です・・。当時の船、今で考えれば旅客機にような存在でしょうか、今見てもすごいのに、当時の人々はまるで宇宙船のように見えていたのかも知れませんね
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ちなみにこちらの施設も、東日本大震災時には大きな被害を受けており、その時の津波の到達位置を示すプレートも掲げられていました。津波の映像で、激しく揺さぶられるこの船が映し出されていたのが思い出されます・・。それでも、よくぞ無事だったものです・・。さらに驚くのが、2011年からちょうど400年前、1611年12月に慶長大津波仙台藩を襲った記録が残っているそうです。よく400年周期で・・、などという話も聞きますが、慶長人も平成人の我々も、凄い時代に生きていたんですね・・。
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支倉一行は、1614年1月にメキシコ上陸。スペインの植民地ですね。そして10月にはスペインに到達し、アルカサール宮殿に宿泊したそうです。スペイン国王フェリペ3世に謁見します。さらに1615年10月にローマに到着。11月にサン・ピエトロ大聖堂
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ローマ法王パウロ5世に謁見しました
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この時に、伊達政宗からパウロ5世に宛てて書かれた書状が凄いんですね・・
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金ピカな、金がまぶされた書状。なんて豪華な書状でしょうか・・
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支倉常長は、宣教師派遣と通商許可の請願をしますが、期待する返答はもらえませんでした
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それでも粘り強く交渉を試みる常長・・、しかし、交渉は成功することはありませんでした。1620年、常長はやむなく帰国、しかし、帰国した日本ではキリスト教の禁止令が布かれており、キリシタンの処刑も相次ぐ状況・・。常長は失意のうち、帰国後から二年後に死去した、と言われています。
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支倉常長像。写真のない当時は、絵こそ貴重な史料ですね。こうした着物を着ていたという史料でしょうから、非常に貴重ですね。しかし・・こうした史料を見る為に仙台市博物館に行ったのですが、毎度のことながら感動します・・。来てよかった、と、いつも思う瞬間ですね・・
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そしてこれが、有名な支倉常長の絵です。古い絵なので皺も多々ありますが、ちょうど四つに折った後のような、十字状に大きな皺が刻まれていました。きっと禁令の時代背景の中で、絶対に見つからぬように、と、しっかりと折って隠し保管していたのでしょう・・。うーむ・・これはすごい・・。たった一枚の絵ですが、その背にある時代という巨大なうねりが隠された史料です・・。



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