うめじろうのええじゃないか!

幕末巡りと食べ歩き、時々うめじ論

「義祭同盟碑」@龍馬をゆく2017

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佐賀市白山1丁目にある八幡宮(龍造寺八幡宮)の中に「楠神社」があります。ここは安政3年(1856)に鍋島安房(茂真)が八幡神社の境内に楠公尊像を祀り「楠社大祭」を執行したそうで、それが楠神社のはじまりらしい。ちなみに鍋島安房嘉永6年ロシアのプチャーチンが長崎に来航した時に警備の為長崎に行っています。
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境内にはこんなキャラな観光向け顔出し看板もありましたが・・。。
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幕末史上重要なものを顕す碑が存在しています。「義祭同盟碑」。まだ新たしいのでしょうか?すごく綺麗な碑です。
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水戸の「黄門さま」二代藩主光圀は元禄5年(1692)、楠木正成戦死の地湊川に楠公墓碑を建立します。楠公をはじめて公に顕彰したという「嗚呼忠臣楠子之墓」。幕末になり水戸藩の藩儒で烈公の師でもある会沢正志斎も著書の中で国家功臣の祭祀に必要を論じていました。その例として挙げたのが「楠木贈左中将」でこれが各藩に伝播していきます。これにより各藩における楠公祭祀が興りました。そしてその嚆矢は佐賀藩嘉永3年(1850)枝吉神陽と弟の副島種臣らが中心となり、「楠公義祭同盟」が結成されました。
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以来楠公尊崇の機運が生じ、西南雄藩に楠公顕彰の動きが広がってゆきます。文久3年(1863)には八一八の政変で都落ちした七卿が、長州へ落ちる途中湊川へ立ち寄り楠公墓碑を参拝していたり、また、元治元年(1864)長州藩明倫館楠公祭を執行しています。こうした動きから、王政復古がどういう意味を持ったものなのか、西南雄藩は覚り、楠公尊崇が維新政治に参加する重要事項であることを認識した、ということではないでしょうか。


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