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澤辺琢磨とニコライ

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龍馬と武市の縁戚にあたる土佐の澤辺琢磨にまつわるはなしがあります。澤辺琢磨は江戸での剣術修行中のある晩、酒に酔って拾った金時計を売ってしまいました。それが露見し、澤辺は切腹に追い込まれます。
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そこで龍馬と武市が機転を利かせ、澤辺を江戸から逃がした、といわれています。東北各地を転々とした琢磨は箱館に流れ神明社宮司となりました。
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一方、文久元年(1861)領事館付属聖堂の管轄司祭」という資格で箱館に来たニコライ青年がいました。余談ですがこのニコライはゴローニンの「日本幽囚記」を読んで高田屋嘉兵衛に感銘を受け日本に骨をうずめての布教活動を決意したという人物で、「日本幽囚記」の嘉兵衛の挿絵を手に箱館に来て真っ先に嘉兵衛の遺族を訪ねたと言われています。
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時は文久、当時の日本といえば切支丹禁制はもとより「攘夷熱」が沸騰しているさなか、ニコライの布教運動は非常に危険な運動であったことでしょう。澤辺琢磨も流行りの攘夷思想の中を生きる青年の一人、ニコライの斬殺をも辞さぬ構えであったといいます。
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しかし、ニコライの「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断してもよろしかろう」と話しを聞くうちに、すっかり心服し日本人で初めて洗礼を受けた一人、となるのです。以下、司馬先生の「街道をゆく」から抜粋です。「当時箱館のような町にも攘夷浪士がうろうろしていて、その中でも澤辺琢磨というものが有名であった。彼はニコライを斬るべくやってきて、その話を聞くうち、逆にその信徒になってしまった」当時は外国人はローニンを恐れていましたが、私は少しも怖くありませんでした、とニコライは晩年語っていたといいます。
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改めて、函館という街には歴史上の錚々たる人物が通り過ぎていますが、龍馬や武市への繋がりもまた無縁では無いのですね。私は個人的に、龍馬が維新後も生きていたなら必ず北海道に来ていたと考えています。龍馬の性格的に、絶対に来ていたと思うんですね。
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