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伏見寺田屋【竜馬通り商店街】|龍馬をゆく2023@京都

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京滋に住まわせていただくようになってからはおかげ様で、例年霊山護国神社で11/15に執り行われる【龍馬祭】にもちょいちょい参加させていただいておりますが

今年は仕事の休みが合わず見送りとなりました。

【龍馬祭】で振る舞われる「しゃも鍋」がまた美味いんですよね(^^)

ちょうど紅葉シーズンでもあり、毎年紅葉した木々の葉の中でいただく「しゃも鍋」のイメージにて・・それを思うと今年も行きたかったなあ・・と思うところであります・・^^;

 

 

 

さて、「龍馬祭」といえば全国各地で催しがあると思いますが、同じく京都の中でもご周知、龍馬の定宿として有名な【寺田屋】がある伏見の商店街でも「龍馬祭」が毎年開かれています(^^)

今年2023年度は先週の12(日)だったようですが・・こちらも予定が付かず見学に行くことは出来ませんでした・・・。

「龍馬パレード」は見てみたかったですけどね・・^^;

そんな伏見の竜馬通り商店街を先日ブラブラした時の記録です(^^)

商店街の各お店に掲げられている龍馬ゆかりの人物の写真が、ファンの目を楽しませてくれます(^^)

ご存じ、「寺田屋お登勢」さんですね!

私が滋賀住みとなった2019年、早速大津市の「お登勢さんの実家」を訪れたものです。

a-jyanaika.hatenablog.com

龍馬像とともに「西郷どん」。

薩長同盟締結後、長府藩士の三吉慎蔵と共に寺田屋にいたところを幕吏に踏み込まれ・・手に深手を負いながらも命からがら近所の材木小屋まで逃げ延びた際、薩摩藩が救助してくれたんですよね・・。

龍馬像の足元に掲げられている絵がすっごく・・・

気になる・・・^^;

クラフトビールの秋のイベントでしょうか?

ここにも龍馬の影絵がありました。

この影絵に・・なんかすごいワルモノ感を感じるのは私だけでしょうか・・・・笑

商店街のシャッターや建物には龍馬をモチーフにした絵がいっぱい。

「龍馬ホール」っていうコミュニティーホール?があるみたい・・・。

こうした看板や地図も龍馬でいっぱい。

例えば遠方から「寺田屋」に訪れたファンなどの目と心も、きっと楽しませてくれていることでしょう(^^)

2006年当時初めて龍馬商店街に来た時に立ち寄らせていただいたお店が・・どうにも見当たりませんでした・・

17年も経つと・・いろいろ変化しちゃってるんでしょうかねえ・・・

おっ・・、ジョン万さんや・・!

余談ですがこの「ジョン万次郎さん」、ウチの親戚の伯父さんに似てるんですよね・・^^;

だからジョン万さんの写真を見るとなんとなくドキッとする私です・・・^^;

そして「寺田屋」パトロール

今回は見るだけです~笑

異常なし!

a-jyanaika.hatenablog.com

一番初めに「寺田屋」を訪れた時、中書島駅を降りて歩いた時、この濠川を見て興奮した記憶が今でもはっきり残っています(^^)

京阪伏見桃山駅脇の踏切のところにも・・・

龍馬とおりょうさんが描かれていました(^^)

以上、伏見の竜馬通り商店街の記録です

@京都2023

 

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【後藤象二郎寓居跡記念ギャラリー】|ホテルリソル京都河原町三条|@龍馬をゆく2023

2018年6月にオープンしたという「ホテルリソル京都河原町三条」。

ここに、【後藤象二郎寓居之跡】碑が建っていました!

ここはかつて土佐藩出入りの醤油商「壺屋」があった場所だそうです!

ご周知、高瀬川沿いの土佐藩邸からもほど近いこの場所に幕末、後藤象二郎が京都滞在時に寄寓していたということで、それを示す碑が建っていました。

 

 

 

今回の【龍馬をゆく~京都編】は幕末京都の「壺屋」、後藤象二郎寓居跡です!

醤油商「壺屋」は、播磨の老舗醤油商が京都に設けた問屋だそうで、京料理に欠かせない淡口醤油醸造をしていたそうです。

播磨の龍野から大坂に運搬された醤油樽は、淀川から高瀬舟にて伏見を経由し京都市中まで運搬されました。

醤油樽の展示もされていました。

壺屋は「ヤマツ醤油」と号して山に「ツ」の商標を用いていたようです。

ちなみに、幕末の醤油商がどのような感じだったのかが分かる「澤井醤油本店」さんの様子が↓です

a-jyanaika.hatenablog.com

で、ホテルの入口を入ったその右手に【後藤象二郎寓居跡記念ギャラリー】が設置されていました!

なんと・・これはすごい・・!

こんなフツーのホテル内にこのような幕末に関する展示がされていたとは・・・!

ギャラリーが設置され、後藤象二郎の生い立ちや坂本龍馬とのエピソード、幕末当時のこの界隈のジオラマまで設置されさながら小博物館!

これは知りませんでしたね~・・・ファンにはたまりません・・!

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ここは宿泊客のみならず、一般にも9:00~20:00に解放されていて自由に見学させていただけるということで、非常に嬉しいギャラリーです!

これがまた・・非常に見応えがありましてね・・!

説明書きも含めて非常に丁寧に説明されていて、リアルなジオラマも展開されていて現在の地図と照らし合わせて見るに、非常によく解るんです・・!

地図好きとしてはずう~っと見ていられますね~笑

当時はこの界隈、高瀬川を通って運ばれた物資を積み下ろしする為に、入江として「舟入」がありました。

二条に「一之舟入」が現存しているかと思いますが、四条の「九之舟入」まで当時は七カ所の舟入がありそれぞれの舟入には商家が軒を並べていました。

(「九之舟入」なのに七カ所?というのが不明ですが・・)

水運が衰退し、今では一之舟入以外は全部埋め立てられてしまいましたが、幕末当時の「壺屋」は「五之舟入」に面していたそうです。

壺屋の店先に後藤象二郎がいますね。

写真館で写真撮影しているスタイルです。笑

その対面にいるのが龍馬!

こちらも何故か、写真撮影しています。笑

この「五之舟入」の位置関係はこうです↓

今のクロスホテルの辺りは舟入だったんですね。

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龍馬がいるのがご周知、海援隊京都本部「酢屋」です。

木材商の酢屋と五之舟入を挟んだ対岸が後藤象二郎が滞在していた「壺屋」だったんですね!なるほど~!

ジオラマと地図は南北が逆転した位置関係ですが、

赤が後藤象二郎(壺屋)、青が龍馬(酢屋)です!

いや~、面白い・・!(私だけ・・?笑)

後藤象二郎が当時壺屋に滞在していたことは伝承の他いくつかの文献でも確認出来るそうで、酢屋の当主「中川嘉兵衛」や書店の「菊屋峯吉」からの聞き取り文献にも「河原町三条下ル東入醤油商壺屋」とあるそうです。

また、壺屋は五之舟入と、河原町通りの双方に面していましたが、後藤が寄寓していたのは五之入船に面した離れの方だったということで、まさに対岸酢屋の龍馬と面していたということになりますね。

 

 

 

昭和初期には当時の壺屋跡の古写真も残っていて、五之舟入は埋め立てられてはいるものの、今以上に当時が偲ばれます。

って、いうかこんなホテルの一角で(失礼!)見ごたえあり過ぎの史料だと思うのは私だけでしょうか・・!笑

京都における後藤象二郎と龍馬の寓居のひとつの関係性を見てきましたが、このような展示を見るといかにも象二郎と龍馬が京都にて近所に起居していたように思えてしまいますが、

そもそも二人が初めて出会ったのは慶応3年(1867)1月の長崎は「清風亭」です。世に言う「清風亭会談」。

同年11月15日にご周知、龍馬は暗殺により落命しますから、初めて会ってから僅か10ヶ月程度という短い関係でありました。

後藤象二郎土佐藩の参政であり、龍馬は言わば叔父の吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の首領・・。

一方、龍馬からしたら後藤は武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の同志を弾圧し処刑した敵でありお互いに因縁深い相手ということになります・・。

物語では一触即発の描写がひとつの見所にもなる場面ですが、結果的に二人は協力し大政奉還へ向けて奔走しました。

説明書きには「もともと象二郎と龍馬は航海通商に邁進する共通項があった」とあり意気投合したとありましたが、私が思うにはそれプラス、アンチ武力革命と徳川の温存という点でも一致したのではないかと思っています。

物語でスペシャルな人気を博し、幕末のスーパースターになった「龍馬」。

その影響が巨大ゆえ、龍馬が薩長をまとめ上げ、長年の栄華の上にあぐらをかき悪政をしき腑抜けになった徳川をやっつけて新しい世を、ニッポンの夜明けを導いた!というイメージが強いと思いますが・・

私的には龍馬は「徳川」です。

と・・言うとまた誤解を招きかねませんが・・^^;

幕末動乱期を通じて、当初こそ尊王攘夷・勤皇=討徳川だったかも知れませんが、脱藩しいわゆる世間を自身で見聞する中で世の中を知ったのではないでしょうか・・。

一見破天荒に見える性格も、その中身は実は非常にリアリストでもあり、議より利という面にも表れていると思います。

山内家・土佐藩の後藤にしてみれば恩義のある徳川を「ぶっ潰す」とは言える訳が無かったでしょうし・・潰すどころか何とかして温存させたい・・・新しい世で薩長が権力を握ってゆく中でどうしても薩長に通じている龍馬の力が欲しい・・

龍馬は龍馬で、なんだかんだ言ったところで故郷の「土佐」大事は当たり前ですから・・また「個人事業主」としても「大企業」土佐藩の後ろ盾はとてつもなくデカいものでありましょう・・。

なにより両者とも、大政奉還で革命をソフトランディングさせると同時に徳川を温存させたい

ここで完全に一致を見たのではないでしょうか。

その点でお互いに、大政奉還に命を掛けるという点で「同志」だったんだと思います。

だから過去の遺恨を超えて、手を結んだ。

龍馬はその書簡からも後藤を信頼している様子が見てとれます。

長府の三吉慎蔵宛の手紙にも後藤の事を「見所のある人間」と評価していますし、また別の手紙には「後藤とは天下の苦楽をともにしております」などと書き、

有名な乙女姉さん宛には慶応3年6月24日の手紙にて

「後藤は実に立派です。土佐の同志の中では魂も一番ではなかろうかと思っています」と綴っています。

非常に高く評価し、信頼している様子がうかがえますね。

これは壺屋に象二郎が寄寓し、龍馬が酢屋に寄寓している「第1期」の頃です。

この頃に龍馬は「船中八策」を後藤に示したとされていますが、もしかしたらこの「酢屋」⇔「壺屋」間で歴史が展開していたのかも知れません・・!

(そう考えると鳥肌モンです・・・!)

その後、二人は「イカルス号事件」などの関連もあり京を離れます。土佐→長崎へ。

再び二人が京都に戻ってきたのは10月。大政奉還の目前ですね・・。これが後藤と龍馬の京都での「第2期」。

このタイミングで龍馬は、尾崎三良と共に酢屋を避けて「近江屋」へ居を移したそうですが・・・同時期に後藤も壺屋から土佐藩邸に居を移していたそうなんです・・。

ここから、もしかしたら龍馬が近江屋に居を移したひとつの理由として、後藤がいる土佐藩邸に近いところへ移った・・?こともあるかも知れません・・!

これは私自身、新たな気付きでありました・・!

いや~・・・面白いですねえ~~!!(私だけかな・・^^;笑)

このギャラリーの一角だけで、どんだけでも妄想が噴出してきます^^;!

156年前の「ここで」龍馬と後藤がヤバい会談を重ねていたかと妄想すると・・・京都幕末ワールドに心がトリップしてしまいます・・

いや~・・・・楽しいですね~!!笑

と、いうことでまたまたキリが無いので今回はこの辺で・・^^;

お付き合い、どうもありがとうございました。

私の幕末の旅は、まだまだ続きます(^^)

@京都2023

 

マスク外れた龍馬像、軍鶏鍋振る舞いも復活ぜよ!【2022龍馬祭】@京都2022

こんばんわー

いよいよ秋も深まり・・というか・・北国では早雪のシーズン到来・・といったところでしょうが・・^^;こちら京滋地域は秋真っ盛り、といったところです(^^)

そんな秋の紅葉シーズン・行楽シーズン真っ只中にて・・

いやあ・・京都・・すごい人です・・・(~_~;)

 

 

 

ずっとコロナでガランガランだったのもあって、こんなに人多かったっけ・・京都・・って感じで京都駅前のバスターミナルなんか長蛇の列になっていましたねー・・。

ICOCA使えるんちゃう・・?バスで両替出来るんちゃう・・??」

などとしきりに心配されてる方もいらして、使えますよー!東京の方は「Suica」も「PASMO」も使えますよー(^^)交通系、各種使えますよー!って感じでした。笑

観光の方はぜひ、↓もご参考にしていただけたら幸いです(^^)

a-jyanaika.hatenablog.com

さて、私めはそう!

毎年恒例の「法事」です^^;

霊山護国神社で毎年執り行われる「龍馬祭」。今年も運良く休みが合致し、お墓参りに行って参りました(^^)

おっ!

今年は龍馬像のマスクも外れちょる!

2020年は「マスク龍馬」でしたからね・・。ある意味、これもまた時代を象徴する様子でありました・・。

a-jyanaika.hatenablog.com

まずは先生方のお墓参りに。

毎年思うんですが、いつもこの日はいい天気に恵まれるイメージです(^^)

龍馬のカラッとした性格が表れているのでしょうか?

私的には坂本龍馬というその人は、もっと陰鬱な人だったと勝手に思っちょります^^;笑

墓前には綺麗な花が手向けられており、多くの方々が手を合わせておられました。

例年「龍馬祭」の日はお墓参りも長蛇の列で、ずうっと石段上がってゆくのを並ぶのですが・・

人ごみが超絶苦手(というか恐怖症に近い?)私なので・・今日は朝早くに行きました^^;

祭事は15:30くらいから夜にかけてだと思いますので、午後からは例年通りの人出がありそうですしね・・・。

ここに来ると毎回思うのですが・・初めてここを訪れた時のことを・・。

札幌から飛行機で飛んで来て、坂本先生に報告しましたね。

先生、先生が浪士を集めて開発しようとしていた蝦夷地から「空飛ぶ黒船」に乗って参りました。今は先生、ブーツよりもこじゃんと歩きやすいスニーカーいうものが流行ってますきに。

おお!ほうか、ほうか、そらあ愉快じゃのー!空飛ぶ黒船ゆーのもそら乗ってみたいもんじゃのうー!

と、新しいモン好きの坂本センセーならきっと喜んで聞いてくれただろうと、ね(^^)

多くの方々が思い思いに墓前で手を合わせる姿を見ながら、幕末のスーパスターの人気のほどを改めて実感するところですが・・

しかし一方で、最近の巷の風潮としては一時の薩長偏重から脱して、どちらかと言うと幕府や徳川側の素晴らしさを再確認する動きが大きくなっているように感じます。

こうした点もまた、現代の世情のうねりが密接に関係していたりするのでしょうが・・・一時の何でもかんでも薩長優秀論、みたいなところから離れて来ている部分は良き動向ではないでしょうか。

お墓参りを済ませたら、そう!

何が楽しみかって、これですよね(^^)

高知県人会さんの「軍鶏鍋」のふるまい!

今年も開催が直前まで不明のようでしたが・・ありがたいことに今年はやってらっしゃいました(^^)

近江屋で中岡らと会談していた龍馬は、軍鶏鍋でも食おうか、と峯吉に軍鶏を買いに行かせたんですよね。

峯吉っつあんが、軍鶏を買って帰って来た時に見た光景は・・血まみれで暗殺されている龍馬の姿でした・・。

食べれなかった軍鶏鍋・・。

毎年墓前にも軍鶏鍋が捧げられます。

なんか今年の軍鶏鍋、豪華やない(゜.゜)!

以前はもうちくっと小さい器だったような気が・・・(#^.^#)

これは嬉しいですねー!

はああ~・・・うっまああ(#^.^#)♡

毎回めちゃ美味しいんですけど、最近ホラ・・私あんましこうゆうの食べてないし・・苦笑

めっちゃ美味い!!

なにせ寒くてですね・・いや、私今日今シーズン初めてダウン着ましたモン^^;!えっ・・まだ早い・・?いやいや・・結構コート来ている人もいましたけど・・一方でシャツ一枚、みたいな人もいて・・・。よく寒くないですね・・^^;

県人会の方が「生姜入れますか?」って聞いてくださったんですけど

そらあ、ねえ!土佐の祭事でねえ、生姜入れないって手はないでしょう(^^)!ガッツリ入れてくだあさい、って感じでした!笑

その生姜が利いてまた美味いのよ(#^.^#)!

「おかわりもいけますんでねー!おかわりどうぞー!」

なんて声掛けされていらっしゃって、こじゃんと美味い軍鶏鍋おかわりまで出来るなんて、なんと気前が良い振る舞いでありましょうかっ!!(おかわりはいただきませんでしたけどね^^;笑)

例年、太鼓等のパフォーマンスが行われて賑わっておりますが、夕方からは賑わったのでしょうね(^^)

「酢屋」なんかにも例年祭壇が用意されていたと思うんですけどね・・今年の夜はどうなのか・・?

本当は夜にゆっくり楽しみたい気もするんですが・・明日は仕事ですしね・・サクッとお墓参りをして早々に引き上げるといたしましょう(^^)

2022龍馬祭@京都

 

甲子役 戊辰役 薩藩戦死者墓|相国寺|@【龍馬をゆく】2022

十四世紀末、室町幕府三代将軍・足利義満により創建された相国寺

その足利義満によって禅寺の格付けがなされ、京都の「五山」が定められたといいます。

そりゃ、本人が創建した寺は入るよね、ということで京都五山第二位「相国寺」。笑

ちなみに五山は以下

・第一位 天龍寺
・第二位 相国寺
・第三位 建仁寺
・第四位 東福寺
・第五位 万寿寺

足利義満と言えば「勝林院」の項でも触れましたが「声明」ですよね。

応永13年(1406)、宮中で催された天皇家の法要に、義満は武家出身として初めて声明を披露した。

これは当時宮中に与えたインパクトは相当なものであったと思われます。

あの、花びらを撒きながら謡うやつですね。出家後の僧侶な姿の義満しかもうイメージ出来ません・・。

 

 

 

ちなみに「千本釈迦堂」こと大報恩寺のちょっと右上、北東方向に「花車町」という地名があると思いますが、これは室町時代足利義満が乗った花車(お祭りの山車みたいなやつ)が壊れたのかハマったのか、そこで動けなくなったらしく、そこから「花車町」の地名が来ているそうです。

相国寺同志社大学今出川キャンパスの北側にありますが、ご周知、この界隈は幕末には薩摩藩二本松藩邸があった場所ですね。

元々二本松藩邸は、相国寺の土地を借りて建てられたものでありましょう。

こちらには幾度か訪れていたものの、なかなかUPするに至っておりませんでした・・。

2021年初夏に訪れた時に、この鐘楼(洪音楼)の前で地元のおばちゃんが立ち話で「スーパーまつもと」の文句を言っていたのが印象に残っています・・・苦笑

「浴室」ということですが、蒸し風呂でしょうか?

「宣明」(せんみょう)と呼ばれるそうですが、1400年頃の創建ということで(現在のものは1596に再建、2002年に復元修復されたものだそうです)、凄いですよね・・・。

さて、私の「本題」はこちらです。

「甲子役 戊辰役 薩藩戦死者墓」。

禁門の変戊辰戦争で無くなった薩摩藩戦死者のお墓が建立されていました。

個人的には戊辰戦争時以降になると急に幕末熱が冷めてしまいます・・・。何故か、とても違和感を感じるというか・・・サムライ感が無くなってしまう感覚がとてもつまらなく感じてしまうんですよね・・・。

2022年現在、最近はだいぶ幕末にまつわる世間の味方も変化してきたように感じます。

いわゆる、「勝者」による明治以降の「薩長史観」で塗り固められた塗料が、いよいよ剥がれ落ち始めているような・・そんな気がする令和の今日この頃です。

 

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「浪人のアジト」【方広寺大仏殿跡】@龍馬をゆく2022

おりょうがその晩年、語ったとされる「聞き書き」。

そこに土佐の浪人達が潜伏していた「アジト」の話として、「大仏」が出て来ます。

「大仏」とは、かつて京の都に存在した方広寺の大仏の事であり、その周辺地域のことを単に「大仏」と呼んでいたんだと思います。

アジトに関しては以前UPしたログを添付させていただきます。

a-jyanaika.hatenablog.com

その方広寺の大仏殿の跡地を訪れました。

豊国神社の背中?側、後方にあります。京都国立博物館の「裏手」とも言える場所で、最近ではめっきり京博通いのワタクシですので・・「いつもの」場所な感じです・・笑

 

 

 

豊国神社は秀吉が亡くなった慶長三年(1598)の翌年、方広寺後方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、廟所が建立されたのに始まるといいます。着工時はまだ秀吉の死は伏せられていた為、大仏の鎮守社とされていたそうです。

神社の前にはしっかりと、秀吉の仏像が鎮座していました。

秀吉は自身を「新八幡神」として祀るよう遺言したと言われますが、朝廷から与えられたのは「豊国大明神」でした。

この辺りは私は勉強不足ですが、「明神」という号は吉田神道系ですよね?これに対して徳川家康は「権現」、これは山王一実神道系ですよね。このあたりの対立軸というか、またそこに介入してくる耶蘇(キリスト教)との関連を読み解く事が戦国~江戸を理解する要素のひとつ、だと思っています。

これに接した時、秀吉が「新」八幡として祀れと言ったのは、これまでの八幡の在り様を否定しているのか?などとも思ってしまいました・・。いやいや・・秀吉公・・ヤツらが一方的に来たのでは無く、こちらから戦略的に行って、そして来させた、のかも知れませんよ・・・。

幕末の浪人から外れてしまいました・・・。

その「大仏殿跡」。

大仏殿跡緑地。

かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。

現在の緑地はその中央部にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。

調査の結果大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55mという、現在の東大寺の大仏殿をしのぐ壮大さであったことがあらためて確認されました。発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。

 

ちなみにこの「方広寺」とは創建当時から江戸初期にかけての文献にはその名はまったく現れないそうです。

方広寺」の命名の由来は不明との事ですが、一説によると東大寺の重要な法会「方広会」に因んだものだと言われています。また、豊臣秀吉の「豊公」に因んでいるという説もあるようです。

ここにかつて19mにも及ぶ大仏が鎮座していたとは・・今では想像も出来ません・・・。

しかしこの大仏、造立の度に損壊を繰り返した「悲劇の大仏」であったようで、慶長伏見地震、寛文近江若狭自身、寛政10年の落雷、火災、昭和の失火による火災・・・と立て続けに被害に見舞われます・・。

まさに「地震・雷・家事・(親父)」状態ですね・・・。

龍馬とおりょうの頃の大仏は、4代目の大仏であり3代目の大仏殿であったと思いますが、はたしてここを訪れていたのでしょうか。

しかし「最後の」大仏は、昭和48年にまで存在していたというのにむしろ驚くといいますか・・・という事は我々の父母世代、おじいちゃんおばあちゃんは見た事ある人もいらしたワケですよね・・。

 

↓参考)京都市消防局のHPに、昭和48年の火災の記事が載っていました

www.city.kyoto.lg.jp