うめじろうのええじゃないか!

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#日本史

法性寺(龍馬潜伏の寺)@龍馬をゆく2018

街歩きはまだまだ続きます。朝からずっと歩き通しにて、さすがに足腰もクタクタになって来ました・・。辿り着いたるは、「法性寺」。 お寺の門前に碑があります。「蘭医ボードウィン逗留の寺」。幕末時のオランダ人医師、ボードウィンの宿舎となっていたお寺だ…

土浦藩蔵屋敷跡@大阪2018

街歩き中、土浦藩蔵屋敷跡を見つけました。土浦藩主、土屋政直。貞亨元年(1648)大阪城代となり、この地に蔵屋敷を構えたそうです。前茨城県人なので(笑)

ぜんざい屋事件跡地(大利鼎吉遭難之地)@大阪2018

慶応元年(1865)1月8日、石蔵屋(ぜんざい屋)に土佐の浪士、大利鼎吉、田中光顕らが潜伏していました。大阪の市中に火を放ち、混乱をおこす計画を立て、あわよくば大坂城を乗っ取ろうと企んでいたそうです。 そこに踏み込んだのが新撰組!谷三十郎らが浪士…

天保山@龍馬をゆく2018

天保山にやってきました。ここも幕末の交通の要衝のひとつとなりましょうか、よく出てくる場所ですね。 我々、「龍馬」的にはやはりコレですね。龍馬とおりょうが、いわゆる日本初の新婚旅行、薩摩に出発した場所がここ、天保山の湊でした。こうしたモニュメ…

京屋忠兵衛跡@大阪2018

八軒家船着場跡にほど近く、当時船宿が並んでいたであろうこの界隈にチーズ屋さん?がありました。そしてこのお店の建物の脇に・・・ 「京屋忠兵衛跡」のプレートが!新撰組の幹部が定宿としていたようです。そして龍馬の妻おりょうが、売られた妹を取り返す為…

八軒家浜@大阪2018

現在の八軒家浜の様子です。幕末の頃とは大きく様変わりしたことでしょう。 京と大阪を結ぶ三十石船の船着場。「淀川のターミナル」には旅籠や問屋が並び、船着場は旅人や物流に携わる人々、客を呼び込む人々の喧騒に包まれていたそうです。 熊野三山への参…

八軒家船着場跡@龍馬をゆく2018

天満橋の近くにある老舗の昆布屋さん。こちらの店先に碑が建っていました 「八軒家船着場の跡」。江戸の頃、ここに八軒の船宿があったことから、そう呼ばれるようになったそうです。そうです、この船着場から幕末、淀川を上り伏見寺田屋まで龍馬も行き来して…

熊野街道の起点碑@大阪2018

大阪散策時に「熊野かいどう」と書かれた碑を見つけました ここから南下し、熊野参詣にゆく、京から熊野への参詣路の総称のようですね。紀伊路とも呼ばれるそうです。

大阪歴史博物館

オオサカジョーから望む、ひと際目立つビル。NHKと隣接する綺麗なビルが「大阪歴史博物館」だそうです。楽しそうだな、と楽しみにしていたものの・・・ この日は休館日・・・。。。私の歴史巡りによくあるやつです・・。 次回のお楽しみにとっておこう・・(と、…

大坂城@龍馬をゆく2018

デカイ・・・。率直なる感想です。初めて来ました、大坂城。 この大きな歴史のポイントでは、あまりにも多くの要素があり過ぎて、「うめじろうのええじゃないか!」的には何をアーカイブすればよいものか・・、ちょっとわかりません・・苦笑) と、いうことで(笑)…

坂本龍馬訪問の地【土佐藩住吉陣屋跡】@龍馬をゆく2018

坂本龍馬訪問の地【住吉陣屋跡】@大阪市住吉区東粉浜|龍馬をゆく2018~大阪

三文字屋跡@龍馬をゆく2018

住吉警察署前にやってきました。別に悪さをしたわけではありません・・苦笑 ここはかつて料停旅館「三文字屋」という有名な旅館があった場所、なのだそうです。文久2年(1862)長州から土佐へ戻る道中、龍馬は大阪入りし南朝ゆかりの地(阿倍野)を巡り、その…

「薩万」(海援隊大阪詰所)跡@龍馬をゆく2018

薩摩藩の大阪上屋敷にほど近い場所にあったとされる「薩万」。ご周知、海援隊の大阪詰所です。 ちょうど、このコンビニ辺りになりましょうか。幕末の商家「薩摩屋万吉」、通称「薩万」。 交差点から向こうに目をやれば、薩摩藩蔵屋敷跡(上屋敷跡)である現…

薩摩藩蔵屋敷跡@龍馬をゆく2018

土佐堀通りを歩きました。堀に川、史跡巡りを歩いていると、改めて当時の交通は「川」なんだな、と思わされますね。 見えて来ました。三井倉庫の建物。 やっぱり三井なんだな~・・・ その一角に建っていた碑。「薩摩藩蔵屋敷跡」。ここはいわゆる薩摩藩の上屋…

五代友厚邸跡@龍馬をゆく2018

靱公園にやってきました。難しい漢字ですね・・。 さて、この公園界隈が、かつて五代友厚の屋敷があった場所だということで、さすがは大阪商人達に請われた経済界の大人物、というイメージが湧きあがってくる規模ですね・・。

北御堂@龍馬をゆく2018

「北御堂」(西本願寺津村別院)にやって来ました。ここは、姉小路公知ですね。 文久3年(1863)4月に、勝海舟が姉小路公知に謁見。攘夷派の急先鋒の公卿として有名ですが、この後5月に、京都御所「猿ヶ辻」で暗殺されてしまいます。ちなみに、この「猿ヶ辻…

大和屋弥七邸跡(近藤長次郎妻邸)@龍馬をゆく2018

龍馬と幼馴染の「まんじゅうや」近藤長次郎。その奥さんの実家「大和屋弥七邸跡」。 現在は立派なビルが建っているんだなぁ、と思って見ると、あれ?「ニッケ」の会社なんですね。 ご周知、才溢れる近藤長次郎は努力を重ね、文久3年(1863)には名字帯刀を許…

勝海舟寓居跡(大阪海軍塾跡)@龍馬をゆく2018

この場所が当時「専稱寺」があった場所のようです。勝海舟の大阪での寓居先であり、大阪で私塾、海軍塾を開いた場所。龍馬もここを訪れていたことでしょう。 自販機の横に、ひっそりと建つ碑がありました。この場所では元治元年(1864)、勝海舟と西郷隆盛が…

月照生誕地の謎@龍馬をゆく2018

大阪の史跡を検索していると、「月照生誕地」とありました。示された場所に行ってみると、とあるマンションの前。通説では香川県善通寺市の出身ではなかったでしょうか・・? 月照はご周知、京都清水寺の住職。尊皇攘夷派で西郷隆盛と親交があり、錦江湾に入水…

加賀屋四郎兵衛邸跡付近@大阪2018

加賀屋もまた、豪商のひとつですね。元治元年(1864)11月、新撰組は局長・近藤勇名で加賀屋四郎兵衛をお呼び出し。分家の加賀屋徳兵衛が代理として「三橋楼」に出向くと、近藤から大阪商人に対しての献金要請があったそうです。加賀屋では銀6600貫を新撰組…

淀屋の屋敷跡@大阪2018

ほほう・・・。これがかの有名な淀屋橋かぇ?立派な石造りの橋ですが、当時はまた立派な木造橋が架かっていたのでしょうね。自費で橋を架けるとは、さすがの豪商っぷりです・・! 土佐堀沿いに碑がありました 「淀屋の屋敷跡」。この辺りに豪商の屋敷が立ち並んで…

「千草屋跡」付近@大阪2018

おお~っ、ここがかの有名な「御堂筋」!「雨の御堂筋」♪ですな!(ふるう~・・)苦笑 さて、これまた何の変哲もない都会のビルの一角。アイツ何写真撮ってんねん?的な目線が刺さりまくりですが、新撰組ゆかりの?「千草屋跡地」付近です。かの鴻池・三井に…

「懐徳堂旧址碑」@大阪2018

大阪市内の近代的ビルの一角に、「懐徳堂旧址碑」がありました 大阪商人たちが設立した学問所址のようですが、「書物を持たない者も講義を聞いてよい」「用事がある場合は途中退席しても構わない」等、非常に「民間」を思わせる気風を感じます。朱子学系の学…

除痘館跡@大阪2018

ご周知、緒方洪庵の天然痘予防の拠点ですが、たしかこの辺りだったと・・・。幼稚園前で、何の変哲もないビルや建物を撮影している不審者呼ばわりされるのをビビって・・?焦って探せなかったのですが、どうやらこの左のビル「緒方ビル」に記念碑的なリーフレット…

「銅座の跡」@大阪2018

「適塾」の近くに「銅座の跡」という碑がありました これまたものすごい歴史を感じる建物の幼稚園?の前に碑がありまして、直接は関係ないようですが、何となく関連して見てしまいます・・。 銅座とは銅の売買や統制?を司る機関とのことですが、勉強不足にて…

壬生義士伝をゆく⑨南部藩大阪蔵屋敷跡地@大阪2018

「壬生義士伝」のクライマックス、吉村貫一郎が自刃する場面。家族の下へ還ることを夢見ながらも、サムライとして自刃して果てる貫一郎。「ととは地獄へも極楽へもいがねぇ・・、ととはいつでも、おめたちのそばにいる・・」最期の最期、家族を夢想し命懸けで稼…

緒方洪庵像@龍馬をゆく2018

幕末の一大スポット、「適塾」を訪れました 大都会のビルの谷間に「江戸時代」が残る、異様な空間がありました 隣接する公園に鎮座する、「緒方洪庵像」。 この時代の医者は、何故か「しぇー」な髪型ですね・・。どうしてこういう髪型になるのか、謎です・・ 緒…

適塾@龍馬をゆく2018

今回の「龍馬をゆく2018大阪」は、ここを訪れる為にある、と行っても過言ではない幕末の大きなスポット。「適塾」。毎度の事ながら、幕末スポットが大きく残されている場所に来ると興奮を隠せません・・!大都会のビルの一角に、ここだけ江戸時代が残されたよ…

大阪慶応義塾跡@大阪2018

大阪街歩き中、とある碑を見つけました。なんて書いてあるのか読むのが難しいですね・・・「独立自尊」?? 慶応義塾?福沢諭吉?何故大阪?と、いろんな?が私の頭上には発生していましたが、どうらやこの地に、築地の蘭学塾の分校をおいたらしいですね。 「大…

大阪俵物会所跡@大阪2018

「俵物」とはふかひれや干しなまこ、干しあわびなどのことを呼ぶそうで、江戸時代の日本の重要な特産品であったそうです。当時は幕府の厳しい統制下におかれ、会所と呼ばれる売買センターで、特定の人しか扱えなかったと説明にありました。安永6年(1777)、…